理想の国
初・歴史モノ。
人間の生活にとって最悪の状況というのは、どういうことだろうか?
子供ができないこと?
だが生まれた子供が障害を持っていても子供ができた方が良いのか?
結婚できないこと?
だがしかし、結婚した相手が仕事もしないような男でも結婚した方が良いのか?
そんなことは誰にも分からないが、それに回答を出し、“理想の国家”を作ろうとしたひとりの男が居た。
その男は自国のことを考え、様々なアイデアを出し、自身の正義の元に世界を良化しようとした。
今から数十年前、日本の年号は昭和。
その国に住む一人の主婦から話は始まる。
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「…はあ」
今日、何度目の溜息だろう。そんなことを数えている時間なんてない。そう思うと溜息もうひとつ。
残り少ない預金を考えれば、手を止めている時間はない。
これからこの国は寒くなる。冬の時期はセーターが必要になる。セーターの内職は我が家で唯一の収入源だった。
疲労は有る。黙々と娘とふたり、セーターを縫い続ける。セーターの網目を揃えているときが一日でもっとも気の抜ける作業でもあった。
「ごめん、お母さん、私…トイレ」
「ああ、ゴメン、そうね、気付かなかった」
娘が申し訳なさそうに云う。私は気にしなくて良いと表情で示し、車椅子を押していく。
ここは楽園じゃない。段差を越え、娘の車椅子を寒々しいトイレまで送る。
娘は天使だったが、翼を持っていなかった。
生まれつき足が動かない原因は、医者によって云うことが違っていたが、共通しているのは一生治らないという見解。
一三歳、そろそろ私の腕には娘は重くなっていた。
支えられなくてごめんなさいと私は云う、娘は支えさせてごめんなさいと云う。
辛かった。互いに謝り続けるだけの会話が。
トイレの冷えた空気を割るように、玄関のドアが開いた。あいつが帰って来た
足取りがおかしい。また酒を呑んでいるのか、あいつは…。
「ごめーん! ハニー! まぁた、仕事見つからなかったよぉー……」
娘のトイレが終わり、車椅子を押して戻ると床の上には酒を飲んで倒れているバカ。
…この男を、私の亭主と紹介しようか、うちの娘の父親と紹介しようか、疲れた心には堪える作業だ。バカと呼ばせてほしい。
この男にも同情すべき点はある。務めていた飛行船の工場が、飛行機製造の煽りを受けて倒産してしまったのだらか。
全ては“あの男”が悪い。 “あの男”が来た時から、飛行船の事故が起き、そしてあの男の主導で飛行船から飛行機への転換が行われ、このバカは仕事を失った。
私はトイレの終わった娘を椅子に移し、代わりにバカを車椅子に押し乗せてベッドに運んだ。
この人も可哀想な人だ。もともと真面目に働いていた技師だったのに、突然仕事が無くなって、酒を飲むようになった。
だが、私は可哀想じゃないんだろうか? 娘は可哀想じゃないんだろうか? この世に可哀想じゃない人なんて存在するんだろうか? こんな薄汚れた世界で?
「いってらっしゃい。お母さん」
私は娘と編んだセーターを持ち、換金所へ行った。その報酬は今日の食費にはなるが、明日の分には足りなかった。
灰色の国では、灰色の未来しか見えはしない。
そんなときだった。 一枚の張り紙が輝いていた。大規模な求人募集、“あの男”の政党が打ち出した、大規模な道路計画。技術者を募集しているという。
アウトバーン建設。私はそのチラシをもぎ取って家へと走っていった。食料品を買い込むのを忘れたが、それよりもいち早く、これをあのバカに見せたかった。
あのバカが、男に戻る瞬間を早く観たかった。
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「じゃあ、今日もいってくるよ、ハニー」
「頑張ってきなさい、今日もしっかりね」
“あの男”の政党 大掛かりな道路工事、私たちはいつの間にか“あの男”の政党を支持し、“あの男”を総統と呼び、慕っていた。
うちのバカ旦那もアウトバーン建設のため、かなり良い待遇で就職できた。全ては総統のお蔭だった。
総統は、貴重な税収であるはずの酒やタバコを悪と断じ、国民のことを第一に考えて一家に一台の車やラジオが持てる豊かな国を作ると宣言した。
我が家はと云えば、未だに車は持てていないが、技術者の旦那の収入で明日の食費には困らない。
娘は今もまだ食費にするためにセーターを縫っている。
「お母さん、ごめんなさい、毛糸が無くなっちゃったの。お買い物、頼める?」
「今日は一緒に行きましょう。それに訓練所にも行きましょう。あなたも勉強をしなくちゃ行けないわ」
これも総統のおかげだ。総統は全ての国民が教育が受けられる政策を打ち立てた。障害者という差別の的でしかなかった娘も勉強を受けられるようになるだろう。
ずっと家の中にいるだけの時間は終わった。娘の世界ももっと広がっていくだろう。
道路も未舗装でデコボコとしているが、今までの生活やこれからの未来を考えれば苦ではない。
「お母さん、今日はなんか慌ただしいね。どうしたのかな…?」
町中に鉤十字の制服を着た党員たちが走り回っている。
最近多くなっていたが、今日は輪を掛けて多い。そんな中、街頭に設置されたラジオが鳴った。気持ちが重くなるニュースが聞こえてきた。
聞き間違いかとも思ったが、すぐにラジオは同じ内容を繰り返した。
【繰り返します。我が国はポーランドへの宣戦を布告したものであり――】
驚きは有ったが、しかし、突然ではない。これはいつかは来るという感覚は国民すべてに有ったはずだ。
「お母さん、戦争に…なるの?」
「大丈夫、大丈夫よ。総統が…なんとかしてくれるもの」
もちろん、開戦となれば戦争になる。不安はあるが、それでもここまで経済を立て直した総統のやることだ。大丈夫、戦争はすぐに終わる。
決して勝算のない戦いではないだろう。
世界は…ドイツを、そして総統を中心にして良くなっていくのだろう、そうに違いない…。
総統は、アドルフ・ヒトラーは、世界を導いてくれる人のはずだもの…。
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子供ができないこと?
だが生まれた子供が障害を持っていても子供ができた方が良いのか?
結婚できないこと?
だがしかし、結婚した相手が仕事もしないような男でも結婚した方が良いのか?
そんなことは誰にも分からないが、それに回答を出し、“理想の国家”を作ろうとしたひとりの男が居た。
その男は自国のことを考え、様々なアイデアを出し、自身の正義の元に世界を良化しようとした。
今から数十年前、日本の年号は昭和。
その国に住む一人の主婦から話は始まる。
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「…はあ」
今日、何度目の溜息だろう。そんなことを数えている時間なんてない。そう思うと溜息もうひとつ。
残り少ない預金を考えれば、手を止めている時間はない。
これからこの国は寒くなる。冬の時期はセーターが必要になる。セーターの内職は我が家で唯一の収入源だった。
疲労は有る。黙々と娘とふたり、セーターを縫い続ける。セーターの網目を揃えているときが一日でもっとも気の抜ける作業でもあった。
「ごめん、お母さん、私…トイレ」
「ああ、ゴメン、そうね、気付かなかった」
娘が申し訳なさそうに云う。私は気にしなくて良いと表情で示し、車椅子を押していく。
ここは楽園じゃない。段差を越え、娘の車椅子を寒々しいトイレまで送る。
娘は天使だったが、翼を持っていなかった。
生まれつき足が動かない原因は、医者によって云うことが違っていたが、共通しているのは一生治らないという見解。
一三歳、そろそろ私の腕には娘は重くなっていた。
支えられなくてごめんなさいと私は云う、娘は支えさせてごめんなさいと云う。
辛かった。互いに謝り続けるだけの会話が。
トイレの冷えた空気を割るように、玄関のドアが開いた。あいつが帰って来た
足取りがおかしい。また酒を呑んでいるのか、あいつは…。
「ごめーん! ハニー! まぁた、仕事見つからなかったよぉー……」
娘のトイレが終わり、車椅子を押して戻ると床の上には酒を飲んで倒れているバカ。
…この男を、私の亭主と紹介しようか、うちの娘の父親と紹介しようか、疲れた心には堪える作業だ。バカと呼ばせてほしい。
この男にも同情すべき点はある。務めていた飛行船の工場が、飛行機製造の煽りを受けて倒産してしまったのだらか。
全ては“あの男”が悪い。 “あの男”が来た時から、飛行船の事故が起き、そしてあの男の主導で飛行船から飛行機への転換が行われ、このバカは仕事を失った。
私はトイレの終わった娘を椅子に移し、代わりにバカを車椅子に押し乗せてベッドに運んだ。
この人も可哀想な人だ。もともと真面目に働いていた技師だったのに、突然仕事が無くなって、酒を飲むようになった。
だが、私は可哀想じゃないんだろうか? 娘は可哀想じゃないんだろうか? この世に可哀想じゃない人なんて存在するんだろうか? こんな薄汚れた世界で?
「いってらっしゃい。お母さん」
私は娘と編んだセーターを持ち、換金所へ行った。その報酬は今日の食費にはなるが、明日の分には足りなかった。
灰色の国では、灰色の未来しか見えはしない。
そんなときだった。 一枚の張り紙が輝いていた。大規模な求人募集、“あの男”の政党が打ち出した、大規模な道路計画。技術者を募集しているという。
アウトバーン建設。私はそのチラシをもぎ取って家へと走っていった。食料品を買い込むのを忘れたが、それよりもいち早く、これをあのバカに見せたかった。
あのバカが、男に戻る瞬間を早く観たかった。
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「頑張ってきなさい、今日もしっかりね」
“あの男”の政党 大掛かりな道路工事、私たちはいつの間にか“あの男”の政党を支持し、“あの男”を総統と呼び、慕っていた。
うちのバカ旦那もアウトバーン建設のため、かなり良い待遇で就職できた。全ては総統のお蔭だった。
総統は、貴重な税収であるはずの酒やタバコを悪と断じ、国民のことを第一に考えて一家に一台の車やラジオが持てる豊かな国を作ると宣言した。
我が家はと云えば、未だに車は持てていないが、技術者の旦那の収入で明日の食費には困らない。
娘は今もまだ食費にするためにセーターを縫っている。
「お母さん、ごめんなさい、毛糸が無くなっちゃったの。お買い物、頼める?」
「今日は一緒に行きましょう。それに訓練所にも行きましょう。あなたも勉強をしなくちゃ行けないわ」
これも総統のおかげだ。総統は全ての国民が教育が受けられる政策を打ち立てた。障害者という差別の的でしかなかった娘も勉強を受けられるようになるだろう。
ずっと家の中にいるだけの時間は終わった。娘の世界ももっと広がっていくだろう。
道路も未舗装でデコボコとしているが、今までの生活やこれからの未来を考えれば苦ではない。
「お母さん、今日はなんか慌ただしいね。どうしたのかな…?」
町中に鉤十字の制服を着た党員たちが走り回っている。
最近多くなっていたが、今日は輪を掛けて多い。そんな中、街頭に設置されたラジオが鳴った。気持ちが重くなるニュースが聞こえてきた。
聞き間違いかとも思ったが、すぐにラジオは同じ内容を繰り返した。
【繰り返します。我が国はポーランドへの宣戦を布告したものであり――】
驚きは有ったが、しかし、突然ではない。これはいつかは来るという感覚は国民すべてに有ったはずだ。
「お母さん、戦争に…なるの?」
「大丈夫、大丈夫よ。総統が…なんとかしてくれるもの」
もちろん、開戦となれば戦争になる。不安はあるが、それでもここまで経済を立て直した総統のやることだ。大丈夫、戦争はすぐに終わる。
決して勝算のない戦いではないだろう。
世界は…ドイツを、そして総統を中心にして良くなっていくのだろう、そうに違いない…。
総統は、アドルフ・ヒトラーは、世界を導いてくれる人のはずだもの…。
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