被災したマンガ家
色々と実験的作品です。
もちろん、酷評歓迎。
揺れた。大いに揺れた。
一秒だけ頭が真っ白になったが、次の一秒には理性を取り戻していた。
いっそのこと今の揺れで気絶でもしていれば、堂々と久しぶりの睡眠に浸れたのだろうが、意識を保っているのだから仕方ない。
震度は見積もりで六前後、立派に大震災だ。
仕事を中断して避難なり親族の心配をするのが人の道だろうが、私は人道ではない茨だらけの道を走っている。求道者なのだ。
「…原稿、原稿はッ…?」
アシスタントが居たときのクセで口を出た独り言。
地震大国の日本に四十一年間住んでいる私でも初体験の揺れによって、平積みにしていた参考資料、封も切っていないゲームソフトなどなどがぶちまけられ、プラスチックやセラミックのもんじゃ焼きが万年床の煎餅布団に完成するが、そんなことは気にしていられない。
「締め切りまであと七時間十二分…イケる…あとは仕上げとトーン貼りがたったの八ページだけ…!」
携帯電話や様々な音が鳴っている気がするが、今はそんなものに関わっている段階ではない。
学生の頃から続けていたマンガ家をやってきたが、そんな中で最大の勲章は締め切りを一回も破ったことがないことだ。
この『オーバーマックス!!』、人気が有るせいと云うべきか、おかげと云うべきかで最終回が先送りになっており、構想はその間に練りに練ることができた。
連載の長期化によって親子二代で読んでくれている読者も多くいるし、次なる世代にも鉄板の泣けて燃える名作を届けるために休むわけには行かない。
「せ…先生ッ?」
背後から掛かった三川の声。散乱している部屋に驚いたのだろう、今にも泣き出しそうな声だった。
彼女は『オーバーマックス!!』の途中からの四代目編集者であり、入社直後からアグレッシブに作品を支えてくれている。
というか、鍵は閉めてあったはずだが、彼女はいつの間に合鍵なんて作っていたんだ。
「なにをしているんですか、先生」
様々な点でアグレッシブすぎる小娘は、毀れそうになっていた涙を押さえ込み、既に気丈さを取り戻していた。
「もちろんマンガを描いているのだよ、締め切りは今日だからな」
「そんな場合ですかっ? 先生、だって…だって…」
…あ?
「ならば訊くが…どんなとき、人間はマンガを描くのが正しいのかね? 学校へ往復することだけを義務だと疑わないニート同然の学生時代かね? 構想も考えられず、夢を見るしかできないバカな子供のときかね?」
「そういうことを云ってるんじゃ…」
「泳がないマグロはただのシーチキンで、戦わない戦士はただの臆病者(チキン)、描かないマンガ家も同じだ。生きて死ぬだけの二酸化炭素発生装置だッ!」
気持ちにウソは無いが、それでも口に出してからしまったとは思う。
事実であろうと真理だろうと、他人を傷付けていい免罪符になるはずがない…わかってはいるが謝り方がわからない。マンガの中では言葉も浮かぶのだが。
「…申し訳ありません…私も編集の人間、どんな状況でも原稿を頂くまで帰りません」
毎度、私よりも先に彼女が謝ってしまうが良い解決案がわからない…この悩みもマンガにフィードバックしたいが、解決法がわからないのだから使えない。
「それは正論、ならば三川くん、合鍵を使う前にチャイムぐらい鳴らしてくれ、一応不法侵入だ」
「鳴らしました。電話もチャイムも五分ぐらい」
「…そういえば、チャイムが壊れてるんだった。連載が終わったら付け直す…どうも執筆中は鳴らないようなのだ、うちのチャイムは」
彼女が来てから外からはサイレンと折り重なった叫び声が聞こえてきている、どうにも私が集中している間は誰も音を立てないらしい。
「…多分、連載が終わって周りが聞こえないくらい集中することがなくなれば、完全に直ると思いますよ」
何度か云われていることだが意味がよくわからない。いくら私でも私は私だ。過度の集中で他のことが聞こえなくなるなんて、そんな無様なことが私に限ってあるはずがない。
「とにかく三川くん、ちょっとそこからモデルガンを取ってくれ。ニューナンブ」
「先生、“そこ”って…」
「そこはそこだよ、資料置き場の、ケー…あ」
倒れた音がしなかった。あんな大きなカラーボックスが倒れたらすごい音がするはずだが、何か私が作業している間は音がしないという現代科学では説明できない現象があるとしか思えない。
そうだ、この現象を元にした超能力か何かを出したら面白いんじゃないだろうか、きっと面白い、面白いはずだ。
「先生、これ以上逃げないで、現実を見てください」
「見てるさー、私を誰だと思っているのかね」
「じゃあっ、現状をちょっと説明してみてください」
「…三川くん、漫画家という人種の仕事は夢を見続けることだということを知らないようだね」
「屁理屈を云ってる時間はありません、ちょっと云ってみてください」
「…資料を置いていた棚が…倒れました」
「それでっ」
「…資料が全滅しました」
倒れたカラーボックスが煎餅布団に倒れこみ、周辺にプラスチック片やらなんやらが飛び散っている。
確認するまでもない、ニューナンブだけでなくS&Wやワルサーのような模型は全滅だろう。
「面倒がらずにツッパリ棒なり新聞紙をかますなり、地震対策しておけば…そうだ、防災に命を掛ける男というのはイイんじゃないだろうか、健康に命を掛けるみたいに矛盾した感じが人気のキャラに…」
「だから現実逃避しないでくださいってば。とにかく今回だけ以前の原稿のツカモト刑事のアクションシーン参考にすればどうでしょう?」
「それはいかん、いかに私のマンガとはいえフィクション…フィクションを元にフィクションを作れば、ウソっぽさは二乗…ニューナンブは毎月描いているからフリーハンドで描けるが、記憶だけで描くと実物より誇張してしまう、ダイナミックさが必要なときはそれも手だが、このシーンではリアリティと重量感が必要なのだ」
「…では、どうするんですか?」
「なんとしてでも入手するしかないだろう、ニューナンブを」
作品完成のために、私は靴も履かずに三川が開けっ放しにしていたドアをくぐりぬけ、二日ぶりにマンションを飛び出していた。
急がなければならない、私と『オーバーマックス!!』には時間がないのだ。
ナカタ屋は、ミニ四駆全盛期に脱サラした旦那とガンプラ狂の妻が始めた小さな模型屋だ。
取り立ててなにかウリがあるわけでもなく、作品に新しいキャラを登場させるときに新資料が必要な際、年に数回程度、買い物を済ませていただけの店だ。
来るたびに一人息子の成長記録として店内の壁に貼ってある写真が増え、親バカだと思う反面、妙にリラックスができ、新しいインスピレーションを与えてくれていた。
「ああ、そうだ、ツカモト刑事の恋人のリナちゃんはここの奥さんを参考にしているんだ、写真好きなところとか、そのときにキラキラ光る眼とか」
「だから、現実逃避しないで下さい…被災していますね、完璧に」
「…被災しているな、完璧に」
棚がドミノのように連なって倒れ、模型のプラスチック片が割れたショーウィンドウや電灯のガラスと混じり、仄暗い店内でスパンコールのように光っている。
「三川くん、ここからだったらオモチャ屋のトイザンスが近いはずだ。歩きでも十分仕事場に往復できるが…店から何か聞こえるな」
どうにも三川くんも気付いているらしい。聞こえてくるのは弱々しくもこの世の何よりも力強い赤ん坊独特の泣き声だ。
「先生…!」
「結論から云おう、私たちには人助けなんてやっている時間はない、なんとしてでも最終回を仕上げなければならないのだ。
誰か…この下に人が埋まっているようなんだァー! 誰か助けてやってくれないかーっ!」
私の呼びかけを聞いて振り返った人間が何人か居たが誰も助けには来ない。それはそうだ、全員、私と同じで自分のことで忙しいのだ。他人の尻を拭いてやろうにも自分の分の紙があるかどうかすら怪しいのだ。
「…私に、人を助けるような時間的余裕はない」
「見捨てるんですか、先生ッ!」
「答えはひとつしかない」
今、時の神から時間を買えるなら一時間を十万でも百万でも買ってやる。
時間は何よりも貴重だということを理解している足は動いていた。 十秒あればデッサンの確認ができる、一分あればフキツケができる、人助けなんかで無駄に使う時間はありはしない。
「…そう、無駄にできないからこそ即座に助け出すッ、三川くんは先にトイザンスに向ってくれ」
「先生、助けるんですかッ」
「当然だ。助けを求める一家を見殺しにするような人間が子供たちを感動させるマンガを描けるわけがないだろう」
作家には裏切ってはいけない対象がいくつもある。
例えばキャラクター、私の作品のヒーローたちの中にはここで見捨てるようなヤツは居ない。
さらに例えれば、読者…クズが描いたマンガなんかで感動させようとするのは、読者を冒涜する以外のどんな意味も無い。
そして作者は前のふたつを裏切らない限り、自分に忠実でなければ才能が枯れてしまう。
時間が減っていく焦燥が心中で大地震になっているが、私にはナカタ屋を見なかったことにはできないのだ。
幸せそうな彼らの笑顔は、私の記憶の中の写真館に朗々と飾られているのだ。
「なら、私も行きます!」
「キミは不勉強すぎるぞ三川くん、こういう場合救助に進入する人間が多くなれば二次災害の危険もある、だからキミはトイザンスへ向ってくれたまえ…途中で助けを求めている人間に出会わない限り、立ち止まらずに走るのだッ!」
彼女は災害時とは思えないようない良い笑顔を見せ、走り去っていった。
残った私はといえば、靴を履き忘れて靴下だけで散りばめられたガラスの上を走っていくことになる…自己陶酔と恐怖心で、アドレナリンが止まらないじゃぁないか。
オーストラリアかどこかの雄大な崖かなにかのようにひび割れ、隆起しているのは日本のアスファルト。
その隆起の上をカンガルーばりのジャンプで飛び越え、私の名前を叫びながら走ってくる女性、もちろん三川くんだ。
「…先生、どうでしたか」
彼女も私同様、服のすそが掏り切れて、ハイヒールの踵部分は完全に欠損している。
「先にキミが報告したまえ、三河くん、ニューナンブのモデルガンは手に入ったかね?」
「…申し訳ありません、行く先々の店が棚が倒れるなりしていまして、入手できる状況ではありませんでした…」
本当に申し訳無さそうに、彼女はほこりに塗れた頭を下げた。
「私のほうもモデルガンは手に入らなかったが…これなら借りられた」
そういって私が取り出したモノに、彼女は頭を上げた。ズボンのベルトホルダーに引っ掛けていたそれは正しくニューナンブ。
「有ったんですかッ、ニューナンブのモデルガン!」
「…まあ、持ってみたまえ」
アンダースローで投げ渡したニューナンブを、彼女は両手で浅いピッチャーフライを取るようにキャッチした。
だがしかし、持った瞬間にこのニューナンブが放つ重量、質感、火薬の臭いを察知した。
「あの…先生…これ…?」
「ひとつ、法律を教えておこう、三川くん。犯罪行為をそれと知りながら見過ごすと共犯として罪になる場合があるが、それを知らなければ犯罪にはならないのだよ」
「…判りました。深くは聞きません…“関係のない質問ですが”、このやたらに本物っぽいモデルガンを手に入れるときに“何か”ありましたか?」
彼女も銃刀法の共犯にはなりたくないらしく、私の云っている意味を理解した…いや、理解していない、ということになっている。
「…仮にだよ? 仮に三川くん、被災者の救助のために警察官が拳銃を用いることはよくあることだ…掛かっている鍵を壊したり、大きな音を立てるために。だが弾丸を使い果たした拳銃とはいえ、現職の警察官は貸したりしてはいけない、どんなに救助に協力し、事情が切迫している漫画家相手であろうとな。だが警察官も人間だ、救助のドサクサで紛失するということも有りうる…相手が人命救助に奮闘してくれた漫画家相手だったりするとウッカリすることもあるんだろう」
「話は“全くわかりませんが”、とにかく話の判る警察官さんだったんですね」
「うむ、私も驚いたのだが…」
そう云って私は、自分でやりすぎだと分かるぐらいに仰け反ってみせた。
「彼は『オーバーマックス!!』のツカモト刑事に憧れ、警察官になった人材らしい」
これは意識が飛びそうになるくらい嬉しかった。
「…最高のニューナンブを描かなきゃいけませんね」
「というか、描けないわけがないだろう?」
私は親指を立てて応え、最高のヒトコマを描くために仕事場へと続くけたたましい道を走りぬける。
そのあとも棚が倒れてベタのストックが無くなったり、他にも資料が全然足りてなかったり、助けを呼ぶ声を聞きつけてしまったり、様々な状況が私の持ち時間を削っていく。
だが、私はそれらの難関を突破し、逆境を燃やして熱量に変換していく。名作を生み出すための熱だ、読者を延焼させるためのガンマ線バーストだ。
「あと何時間だ、三川くんッ」
「あと四十五分と十八秒です、あと何ページですか、先生ッッ」
「たったの2ページだぜ、三川くんッッッ」
「それは楽勝ですね先生ッッッッ」
「もちろん楽勝だよッッッッッ」
電話回線は混雑はしてはいるものの、緊急回線が使えるのでファックスはなんとか使えるようになっていた。
もちろん電波に原稿を乗せるリスクは承知しているが、ニューナンブやら人命救助で時間を代償に魂を充填した今の私に不可能はない。
様々なハプニングで時間が減り、かつ新幹線が止まった今、ファックス以上に合理的方法はない。
「三川くん…やってしまった!」
「どうかしましたか?」
「この作品には、さっき助けた人たちの感謝、私自身の自己満足、ニューナンブを貸してくれた警察官の彼への感謝…全てを叩き込めた、全てを込めた」
「そうですか!」
「だが、最後の一ページ分の衝撃が足りない、戦い抜いた主人公が…満足げに力尽きるシーンなんだが…冷めてしまった。熱量が足りない!」
「ないとダメなんですか?」
「最後のページ以外は…もう最終回でしかありえない、というくらいに入魂だが、最後の一筆まで魂を温存するのを忘れた」
日本語として破綻している自覚はあるが、なんだかもう、さっきまではペンと腕だけが燃えている状態だったのに、叩きつける精神がない。
もちろん熱は残っているのだが、熱量第二法則的とというか、他のページが燃えすぎていて最後のコマだけが熱量が低い。
「どんな衝撃が必要なんですか?」
「どんなものでもいいんだ、燃えてはいるわけだからこの熱を際立たせる最後の衝撃…インパクトが必要なんだ」
「…では、こんなのでどうでしょう?」
三河くんは掛け声をかけて、倒れたカラーボックスを起き上がらせた。
散乱しているモデルガン、参考文献、ゲームソフト、オーバーマックス!!の単行本――そして、血まみれの死体。
「被災者か? 死んでいるのか?」
答えを待つまでもない、いつもベタで表現するようなマンガ的、出血量。マンガのキャラならばこれでも生きているが、この死体は残念なことに現実なのだ。
助けを求めていたであろう人物を助けられなかったことは大きな衝撃だったが、続いて疑問がわいた…なぜ『彼』は『私』の仕事部屋で死んでいるのだろう?
「気付かったのは先生のせいじゃありません、先生は…このひとだけは助けられるわけが…なかったんです」
彼女は『彼』の血で服を汚しながらも、うつ伏せの『彼』を抱き上げ、その顔を『私』に見せてくれて…疑問が解けた。彼はここに居て当たり前だ、ここは『彼』の仕事場なのだから。
そして別の疑問がわいた、なぜ『私』はここに居るのだろう…その疑問を抱いていることに気が付いたのか、三川くんは涙交じりの笑顔で答えてくれた。
「『彼』は、仕事をしていると他の音が何も聞こえなくなるんです…チャイムの呼び出しベルも、電話のコール音も…だから…」
三川くんの言葉の意味はすぐにわかった。
なぜ裸足で走っても痛くもなかったのか、なぜ眠くもなく疲れもないのか、いつにも増しての〆切への焦燥…燃えすぎて考えてもいなかったいくつかの疑問が解き明かされた。
「ありがとう、三川くん。キミは最高の編集だな、いいタイミングで教えてくれた…戦い抜いた主人公と全く同じ気持ちになれた」
私は前以て引いておいた渾身の下書きの上に、全身全霊…いや、全霊全存在をかけた主線を引いていく。
線の一本一本、トーンの一枚一枚、消しゴムのカスひとつひとつ…使っていない道具は修正用ホワイトだけ…そして。
「時間は?」
「…二十九秒のオーバーです」
「最後の最後で、やっちゃったか」
仕事が終わり、さっきまで聞こえていなかった音が聞こえてきた。なるほど確かに私のための演奏だ。これを聞かずには逝けない。
「天使の吹くラッパというのは…こういう音だったんだな」
拳銃を返し忘れたこと、原稿料を受け取れないこと、最後のファンレターを読みたかったこと、描きたかった次回作のこと…不満はあるが未練はない、私は書き上げたのだから。
「――先生、原稿は…確かにお受け取りました」
もちろん、酷評歓迎。
揺れた。大いに揺れた。
一秒だけ頭が真っ白になったが、次の一秒には理性を取り戻していた。
いっそのこと今の揺れで気絶でもしていれば、堂々と久しぶりの睡眠に浸れたのだろうが、意識を保っているのだから仕方ない。
震度は見積もりで六前後、立派に大震災だ。
仕事を中断して避難なり親族の心配をするのが人の道だろうが、私は人道ではない茨だらけの道を走っている。求道者なのだ。
「…原稿、原稿はッ…?」
アシスタントが居たときのクセで口を出た独り言。
地震大国の日本に四十一年間住んでいる私でも初体験の揺れによって、平積みにしていた参考資料、封も切っていないゲームソフトなどなどがぶちまけられ、プラスチックやセラミックのもんじゃ焼きが万年床の煎餅布団に完成するが、そんなことは気にしていられない。
「締め切りまであと七時間十二分…イケる…あとは仕上げとトーン貼りがたったの八ページだけ…!」
携帯電話や様々な音が鳴っている気がするが、今はそんなものに関わっている段階ではない。
学生の頃から続けていたマンガ家をやってきたが、そんな中で最大の勲章は締め切りを一回も破ったことがないことだ。
この『オーバーマックス!!』、人気が有るせいと云うべきか、おかげと云うべきかで最終回が先送りになっており、構想はその間に練りに練ることができた。
連載の長期化によって親子二代で読んでくれている読者も多くいるし、次なる世代にも鉄板の泣けて燃える名作を届けるために休むわけには行かない。
「せ…先生ッ?」
背後から掛かった三川の声。散乱している部屋に驚いたのだろう、今にも泣き出しそうな声だった。
彼女は『オーバーマックス!!』の途中からの四代目編集者であり、入社直後からアグレッシブに作品を支えてくれている。
というか、鍵は閉めてあったはずだが、彼女はいつの間に合鍵なんて作っていたんだ。
「なにをしているんですか、先生」
様々な点でアグレッシブすぎる小娘は、毀れそうになっていた涙を押さえ込み、既に気丈さを取り戻していた。
「もちろんマンガを描いているのだよ、締め切りは今日だからな」
「そんな場合ですかっ? 先生、だって…だって…」
…あ?
「ならば訊くが…どんなとき、人間はマンガを描くのが正しいのかね? 学校へ往復することだけを義務だと疑わないニート同然の学生時代かね? 構想も考えられず、夢を見るしかできないバカな子供のときかね?」
「そういうことを云ってるんじゃ…」
「泳がないマグロはただのシーチキンで、戦わない戦士はただの臆病者(チキン)、描かないマンガ家も同じだ。生きて死ぬだけの二酸化炭素発生装置だッ!」
気持ちにウソは無いが、それでも口に出してからしまったとは思う。
事実であろうと真理だろうと、他人を傷付けていい免罪符になるはずがない…わかってはいるが謝り方がわからない。マンガの中では言葉も浮かぶのだが。
「…申し訳ありません…私も編集の人間、どんな状況でも原稿を頂くまで帰りません」
毎度、私よりも先に彼女が謝ってしまうが良い解決案がわからない…この悩みもマンガにフィードバックしたいが、解決法がわからないのだから使えない。
「それは正論、ならば三川くん、合鍵を使う前にチャイムぐらい鳴らしてくれ、一応不法侵入だ」
「鳴らしました。電話もチャイムも五分ぐらい」
「…そういえば、チャイムが壊れてるんだった。連載が終わったら付け直す…どうも執筆中は鳴らないようなのだ、うちのチャイムは」
彼女が来てから外からはサイレンと折り重なった叫び声が聞こえてきている、どうにも私が集中している間は誰も音を立てないらしい。
「…多分、連載が終わって周りが聞こえないくらい集中することがなくなれば、完全に直ると思いますよ」
何度か云われていることだが意味がよくわからない。いくら私でも私は私だ。過度の集中で他のことが聞こえなくなるなんて、そんな無様なことが私に限ってあるはずがない。
「とにかく三川くん、ちょっとそこからモデルガンを取ってくれ。ニューナンブ」
「先生、“そこ”って…」
「そこはそこだよ、資料置き場の、ケー…あ」
倒れた音がしなかった。あんな大きなカラーボックスが倒れたらすごい音がするはずだが、何か私が作業している間は音がしないという現代科学では説明できない現象があるとしか思えない。
そうだ、この現象を元にした超能力か何かを出したら面白いんじゃないだろうか、きっと面白い、面白いはずだ。
「先生、これ以上逃げないで、現実を見てください」
「見てるさー、私を誰だと思っているのかね」
「じゃあっ、現状をちょっと説明してみてください」
「…三川くん、漫画家という人種の仕事は夢を見続けることだということを知らないようだね」
「屁理屈を云ってる時間はありません、ちょっと云ってみてください」
「…資料を置いていた棚が…倒れました」
「それでっ」
「…資料が全滅しました」
倒れたカラーボックスが煎餅布団に倒れこみ、周辺にプラスチック片やらなんやらが飛び散っている。
確認するまでもない、ニューナンブだけでなくS&Wやワルサーのような模型は全滅だろう。
「面倒がらずにツッパリ棒なり新聞紙をかますなり、地震対策しておけば…そうだ、防災に命を掛ける男というのはイイんじゃないだろうか、健康に命を掛けるみたいに矛盾した感じが人気のキャラに…」
「だから現実逃避しないでくださいってば。とにかく今回だけ以前の原稿のツカモト刑事のアクションシーン参考にすればどうでしょう?」
「それはいかん、いかに私のマンガとはいえフィクション…フィクションを元にフィクションを作れば、ウソっぽさは二乗…ニューナンブは毎月描いているからフリーハンドで描けるが、記憶だけで描くと実物より誇張してしまう、ダイナミックさが必要なときはそれも手だが、このシーンではリアリティと重量感が必要なのだ」
「…では、どうするんですか?」
「なんとしてでも入手するしかないだろう、ニューナンブを」
作品完成のために、私は靴も履かずに三川が開けっ放しにしていたドアをくぐりぬけ、二日ぶりにマンションを飛び出していた。
急がなければならない、私と『オーバーマックス!!』には時間がないのだ。
ナカタ屋は、ミニ四駆全盛期に脱サラした旦那とガンプラ狂の妻が始めた小さな模型屋だ。
取り立ててなにかウリがあるわけでもなく、作品に新しいキャラを登場させるときに新資料が必要な際、年に数回程度、買い物を済ませていただけの店だ。
来るたびに一人息子の成長記録として店内の壁に貼ってある写真が増え、親バカだと思う反面、妙にリラックスができ、新しいインスピレーションを与えてくれていた。
「ああ、そうだ、ツカモト刑事の恋人のリナちゃんはここの奥さんを参考にしているんだ、写真好きなところとか、そのときにキラキラ光る眼とか」
「だから、現実逃避しないで下さい…被災していますね、完璧に」
「…被災しているな、完璧に」
棚がドミノのように連なって倒れ、模型のプラスチック片が割れたショーウィンドウや電灯のガラスと混じり、仄暗い店内でスパンコールのように光っている。
「三川くん、ここからだったらオモチャ屋のトイザンスが近いはずだ。歩きでも十分仕事場に往復できるが…店から何か聞こえるな」
どうにも三川くんも気付いているらしい。聞こえてくるのは弱々しくもこの世の何よりも力強い赤ん坊独特の泣き声だ。
「先生…!」
「結論から云おう、私たちには人助けなんてやっている時間はない、なんとしてでも最終回を仕上げなければならないのだ。
誰か…この下に人が埋まっているようなんだァー! 誰か助けてやってくれないかーっ!」
私の呼びかけを聞いて振り返った人間が何人か居たが誰も助けには来ない。それはそうだ、全員、私と同じで自分のことで忙しいのだ。他人の尻を拭いてやろうにも自分の分の紙があるかどうかすら怪しいのだ。
「…私に、人を助けるような時間的余裕はない」
「見捨てるんですか、先生ッ!」
「答えはひとつしかない」
今、時の神から時間を買えるなら一時間を十万でも百万でも買ってやる。
時間は何よりも貴重だということを理解している足は動いていた。 十秒あればデッサンの確認ができる、一分あればフキツケができる、人助けなんかで無駄に使う時間はありはしない。
「…そう、無駄にできないからこそ即座に助け出すッ、三川くんは先にトイザンスに向ってくれ」
「先生、助けるんですかッ」
「当然だ。助けを求める一家を見殺しにするような人間が子供たちを感動させるマンガを描けるわけがないだろう」
作家には裏切ってはいけない対象がいくつもある。
例えばキャラクター、私の作品のヒーローたちの中にはここで見捨てるようなヤツは居ない。
さらに例えれば、読者…クズが描いたマンガなんかで感動させようとするのは、読者を冒涜する以外のどんな意味も無い。
そして作者は前のふたつを裏切らない限り、自分に忠実でなければ才能が枯れてしまう。
時間が減っていく焦燥が心中で大地震になっているが、私にはナカタ屋を見なかったことにはできないのだ。
幸せそうな彼らの笑顔は、私の記憶の中の写真館に朗々と飾られているのだ。
「なら、私も行きます!」
「キミは不勉強すぎるぞ三川くん、こういう場合救助に進入する人間が多くなれば二次災害の危険もある、だからキミはトイザンスへ向ってくれたまえ…途中で助けを求めている人間に出会わない限り、立ち止まらずに走るのだッ!」
彼女は災害時とは思えないようない良い笑顔を見せ、走り去っていった。
残った私はといえば、靴を履き忘れて靴下だけで散りばめられたガラスの上を走っていくことになる…自己陶酔と恐怖心で、アドレナリンが止まらないじゃぁないか。
オーストラリアかどこかの雄大な崖かなにかのようにひび割れ、隆起しているのは日本のアスファルト。
その隆起の上をカンガルーばりのジャンプで飛び越え、私の名前を叫びながら走ってくる女性、もちろん三川くんだ。
「…先生、どうでしたか」
彼女も私同様、服のすそが掏り切れて、ハイヒールの踵部分は完全に欠損している。
「先にキミが報告したまえ、三河くん、ニューナンブのモデルガンは手に入ったかね?」
「…申し訳ありません、行く先々の店が棚が倒れるなりしていまして、入手できる状況ではありませんでした…」
本当に申し訳無さそうに、彼女はほこりに塗れた頭を下げた。
「私のほうもモデルガンは手に入らなかったが…これなら借りられた」
そういって私が取り出したモノに、彼女は頭を上げた。ズボンのベルトホルダーに引っ掛けていたそれは正しくニューナンブ。
「有ったんですかッ、ニューナンブのモデルガン!」
「…まあ、持ってみたまえ」
アンダースローで投げ渡したニューナンブを、彼女は両手で浅いピッチャーフライを取るようにキャッチした。
だがしかし、持った瞬間にこのニューナンブが放つ重量、質感、火薬の臭いを察知した。
「あの…先生…これ…?」
「ひとつ、法律を教えておこう、三川くん。犯罪行為をそれと知りながら見過ごすと共犯として罪になる場合があるが、それを知らなければ犯罪にはならないのだよ」
「…判りました。深くは聞きません…“関係のない質問ですが”、このやたらに本物っぽいモデルガンを手に入れるときに“何か”ありましたか?」
彼女も銃刀法の共犯にはなりたくないらしく、私の云っている意味を理解した…いや、理解していない、ということになっている。
「…仮にだよ? 仮に三川くん、被災者の救助のために警察官が拳銃を用いることはよくあることだ…掛かっている鍵を壊したり、大きな音を立てるために。だが弾丸を使い果たした拳銃とはいえ、現職の警察官は貸したりしてはいけない、どんなに救助に協力し、事情が切迫している漫画家相手であろうとな。だが警察官も人間だ、救助のドサクサで紛失するということも有りうる…相手が人命救助に奮闘してくれた漫画家相手だったりするとウッカリすることもあるんだろう」
「話は“全くわかりませんが”、とにかく話の判る警察官さんだったんですね」
「うむ、私も驚いたのだが…」
そう云って私は、自分でやりすぎだと分かるぐらいに仰け反ってみせた。
「彼は『オーバーマックス!!』のツカモト刑事に憧れ、警察官になった人材らしい」
これは意識が飛びそうになるくらい嬉しかった。
「…最高のニューナンブを描かなきゃいけませんね」
「というか、描けないわけがないだろう?」
私は親指を立てて応え、最高のヒトコマを描くために仕事場へと続くけたたましい道を走りぬける。
そのあとも棚が倒れてベタのストックが無くなったり、他にも資料が全然足りてなかったり、助けを呼ぶ声を聞きつけてしまったり、様々な状況が私の持ち時間を削っていく。
だが、私はそれらの難関を突破し、逆境を燃やして熱量に変換していく。名作を生み出すための熱だ、読者を延焼させるためのガンマ線バーストだ。
「あと何時間だ、三川くんッ」
「あと四十五分と十八秒です、あと何ページですか、先生ッッ」
「たったの2ページだぜ、三川くんッッッ」
「それは楽勝ですね先生ッッッッ」
「もちろん楽勝だよッッッッッ」
電話回線は混雑はしてはいるものの、緊急回線が使えるのでファックスはなんとか使えるようになっていた。
もちろん電波に原稿を乗せるリスクは承知しているが、ニューナンブやら人命救助で時間を代償に魂を充填した今の私に不可能はない。
様々なハプニングで時間が減り、かつ新幹線が止まった今、ファックス以上に合理的方法はない。
「三川くん…やってしまった!」
「どうかしましたか?」
「この作品には、さっき助けた人たちの感謝、私自身の自己満足、ニューナンブを貸してくれた警察官の彼への感謝…全てを叩き込めた、全てを込めた」
「そうですか!」
「だが、最後の一ページ分の衝撃が足りない、戦い抜いた主人公が…満足げに力尽きるシーンなんだが…冷めてしまった。熱量が足りない!」
「ないとダメなんですか?」
「最後のページ以外は…もう最終回でしかありえない、というくらいに入魂だが、最後の一筆まで魂を温存するのを忘れた」
日本語として破綻している自覚はあるが、なんだかもう、さっきまではペンと腕だけが燃えている状態だったのに、叩きつける精神がない。
もちろん熱は残っているのだが、熱量第二法則的とというか、他のページが燃えすぎていて最後のコマだけが熱量が低い。
「どんな衝撃が必要なんですか?」
「どんなものでもいいんだ、燃えてはいるわけだからこの熱を際立たせる最後の衝撃…インパクトが必要なんだ」
「…では、こんなのでどうでしょう?」
三河くんは掛け声をかけて、倒れたカラーボックスを起き上がらせた。
散乱しているモデルガン、参考文献、ゲームソフト、オーバーマックス!!の単行本――そして、血まみれの死体。
「被災者か? 死んでいるのか?」
答えを待つまでもない、いつもベタで表現するようなマンガ的、出血量。マンガのキャラならばこれでも生きているが、この死体は残念なことに現実なのだ。
助けを求めていたであろう人物を助けられなかったことは大きな衝撃だったが、続いて疑問がわいた…なぜ『彼』は『私』の仕事部屋で死んでいるのだろう?
「気付かったのは先生のせいじゃありません、先生は…このひとだけは助けられるわけが…なかったんです」
彼女は『彼』の血で服を汚しながらも、うつ伏せの『彼』を抱き上げ、その顔を『私』に見せてくれて…疑問が解けた。彼はここに居て当たり前だ、ここは『彼』の仕事場なのだから。
そして別の疑問がわいた、なぜ『私』はここに居るのだろう…その疑問を抱いていることに気が付いたのか、三川くんは涙交じりの笑顔で答えてくれた。
「『彼』は、仕事をしていると他の音が何も聞こえなくなるんです…チャイムの呼び出しベルも、電話のコール音も…だから…」
三川くんの言葉の意味はすぐにわかった。
なぜ裸足で走っても痛くもなかったのか、なぜ眠くもなく疲れもないのか、いつにも増しての〆切への焦燥…燃えすぎて考えてもいなかったいくつかの疑問が解き明かされた。
「ありがとう、三川くん。キミは最高の編集だな、いいタイミングで教えてくれた…戦い抜いた主人公と全く同じ気持ちになれた」
私は前以て引いておいた渾身の下書きの上に、全身全霊…いや、全霊全存在をかけた主線を引いていく。
線の一本一本、トーンの一枚一枚、消しゴムのカスひとつひとつ…使っていない道具は修正用ホワイトだけ…そして。
「時間は?」
「…二十九秒のオーバーです」
「最後の最後で、やっちゃったか」
仕事が終わり、さっきまで聞こえていなかった音が聞こえてきた。なるほど確かに私のための演奏だ。これを聞かずには逝けない。
「天使の吹くラッパというのは…こういう音だったんだな」
拳銃を返し忘れたこと、原稿料を受け取れないこと、最後のファンレターを読みたかったこと、描きたかった次回作のこと…不満はあるが未練はない、私は書き上げたのだから。
「――先生、原稿は…確かにお受け取りました」
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